GEW12月号
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満薗文博う みつぞのふみひろ 身長192㌢、体重92㌔。11月3日に木朗ろき希。岩手育ちのこの若者が海を渡る。向かうのは米国メジャーリーグのマウンドである。 野望と希望は似ている。しかし、たった漢字二文字の単語には、違いが存在している。ギラギラとキラキラ。ギラギラから漂うのは、壮絶にも似た感情であり、キラキラの希望にあふれた明るさ漂う語感とは落差があると、筆者には感じられるのだ。 所属してきたプロ野球の千葉ロッテマリーンズは、このシーズンオフ、佐々木のポスティングシステムでの大リーグ移籍を容認した。現在、メジャーリーグで活躍する日本人選手の大半がこの仕組みで海を渡っている。佐々木の意思、意欲に折れて、ロッテもこの制度を受け入れるしかなかった、と言われる。 だが、佐々木のこの意思の強さはどこからきているのか。最も大きいのは野球を始めた少年の頃からの夢だったと容易に想像出来る。だが、外見の柔和な笑顔とは別のササキロウキが存在しているように思えてならないのだ。 2011(平成23年)3月11日、東日本大震災が故郷を襲った。時に朗希、岩手県陸前高田市で9歳の小学生。野球を教えてくれた、当時37歳の父・功太さんは祖父母とともに津波に飲み込まれ、帰って来ることはなかった。そこから、母の縁を頼って大船渡市に移り住んだ。新しいこの町で中学を出ると、進んだのは県立大船渡高校である。 少年時代に、伝説はいくつも作られたが、その特筆すべきは2019年4月。当時17歳だった佐々木は、U18(18歳以下)日本代表一次選考合宿の紅白戦で、前代未聞の163㌔の剛速球を投げた。以後、佐々木の頭には「剛速球の」が冠せられることになった。 しかし、この少年は春・夏ともに「甲子園」とは無縁だった。高3の夏、岩手県大会で決勝に進みながら、マウンドに上がることはなかった。4番を打っていたが、打席にたつこともなかった。そこまでの「出番過多」が原因ともいわれるが、本人、監督からも詳細が語られることはなく、現在に至っている。 だが、この「事件」は、脈々として現在につながっているのではないかと、この老記者は考えている。少年の頃に襲われた大震災、父の死、進むことのなかった甲子園……。若くして味わった悲しみと苦痛が、193㌢、93㌔に宿し、いま、情念の炎として燃え上がろうとしているのではないか、と思うのである。柔和な顔の奥にギラギラとした炎を見る思いがするのだ。岩手の先輩、大谷翔平が騒がれる米球界に、佐々木朗希、どんな一歩を刻むのだろう。佐々木朗希の野望と希望23歳になった。端正な顔立ちである。佐々1950年2月6日、鹿児島県いちき串木野市生まれ。鹿児島大学卒業。中日新聞東京本社(東京中日スポーツ)では88年ソウル、92年アルベールビル、同年バルセロナ、96年アトランタなどオリンピックを現地取材したほか、各種大会を取材。報道部長、編集委員を経て、現在スポーツジャーナリスト。大学講師。

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