満薗文博みつぞのふみひろくことがある。それが、時、場所、状況が意外な場面で発せられると強烈なインパクトをはらんで、心が激しく揺さぶられてしまうものだ。おおよそ発言の事柄とは対極にいると思われていた(少なくとも私はそう思っていた)チャーミングな24歳の娘の言葉に、危うく指の間から煙草が落ちそうになった。旧曆の盆の入り、8月13日の出来事だ 卓球で得た個人戦の銅、団体戦の銀メった。戦いを終えたパリ五輪の一部日本選手団の帰国会見で、それは起きた。メダルを胸に並んだ選手たちが、マイクを向けられ「ひとことインタビュー」はつつがなく平穏に進行していた。そして、順番が巡ってきた早田ひなが「いまやりたいこと」を問われて応えた。はじめは「アンパンマンミュージアム」へ行きたいと「らしさ」を口にしたが、続けて驚きの言葉が飛び出した。「鹿児島の特攻史料館に行って、生きていることを、そして、自分で卓球を、こうやって当たり前に出来ているということは、当たり前じゃないというのを感じたいと思います」ダルを胸に光らせた早田ひなの顔がりりしく輝いて見える。おそらく、会場に居合わせていた仲間の日の丸選手団、関係者、報道陣が予期せぬ発言だった。しか時として、人は意外な言葉に出会い驚し、よどみなく流れた発言は、彼女の心の内を素直に語ったものだった。左手から、強烈に、しかも美しく放たれる白球からは、はっきりと距離を置く発言がこの日は異彩を放ったのである。終戦記念日を目前にした、さまざまな人の思いを聞いてきたが、素直な24歳のオリンピック・メダリストの〝言の葉〟は沁みる。薩摩半島に位置する知覧の「特攻記念館」を訪ねた日から、もう随分と月日は流れた。鹿児島は、大学時代までを過ごした私の郷里である。第2次世界大戦の終末を目前に、片道だけの給油で軽飛行機を操り、敵艦に体当たりすることだけを目的にした作戦だった。無謀すぎる命令直下、命を落とした若者たちが飛び立った地は、静寂のなかにある。彼女の今回の発言に、中国、韓国あたりで反発の声が上がったと外電が伝えて来た。しかし、彼女は戦争を賛美していない。今やりたいことを許される「平和」への思いが、こうした過ちの上に成り立っていることを噛みしめるために行動を決めたのだ。終戦から79年。意外な言葉で、この老年の心を突き動かした人、早田ひな。2000年7月7日、福岡県北九州市生まれの24歳である。「いまどきの若い者は」などと言ってはいけない。メダル娘と「知覧特攻記念館」1950年2月6日、鹿児島県いちき串木野市生まれ。鹿児島大学卒業。中日新聞東京本社(東京中日スポーツ)では88年ソウル、92年アルベールビル、同年バルセロナ、96年アトランタなどオリンピックを現地取材したほか、各種大会を取材。報道部長、編集委員を経て、現在スポーツジャーナリスト。大学講師。
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